「寺社が語る秦氏の正体」関裕二著 2019年2月9日 吉澤有介

祥伝社2018年11月刊 著者は1959年千葉県生まれの歴史作家で、古代氏族の正体を巡る多くの著書で知られています。本書は、単行本「伏見稲荷の暗号、秦氏の謎」(講談社)を新書にしたものです。
伏見稲荷と秦氏は、古代史最後の謎でしょう。伏見稲荷を総本社とする稲荷信仰は全国に及び、神社の数は3万社もあって他を圧倒しています。さきにご紹介した八幡神と合わせると神社全体の過半数にも達します。なぜこれほど広まったのでしょうか。伏見稲荷を祀ったのは秦氏でした。八幡神もまた秦氏が絡んでいます。秦氏は渡来した新羅系の豪族でした。
著者はその謎を、太秦広隆寺の伝承を手がかりに探ってゆきます。秦河勝が創建した広隆寺は、聖徳太子を祀っていますが、なぜか歴代天皇は即位儀礼に用いた衣服を贈ってきました。何かを怖れているような、その慣習は今なお続いています。さらに広隆寺にはユダヤの痕跡があるというのです。秦氏のルーツは古代中国だったという、いくつかの根拠があり、また新羅から来日したというアメノヒボコ説話とも、深い関係がありそうなのです。
能の創始者世阿弥は「風姿花伝」のなかで、秦河勝の末裔であると述べています。秦氏は日本文化の基層をも築いていたのです。そこで著者は、大きく過激な発想を飛ばしました。
まず乙巳の変では、革新派の蘇我入鹿が律令改革を進めたことで、保守派の中大兄が危機感を持って起こしたとみます。唆したのは中臣鎌足ですが、これはどうみても百済王子のホウショウである。決定的な証拠は、入鹿殺害に中大兄が自ら立ち向かったのに、鎌足は後ろで弓を構えていただけでした。主従の行動ではありえないことです。直接手を下したら外交問題になるからでしょう。
乙巳の変の大義名分は、山背大兄の上宮一家を滅ぼしたこととされていますが、そもそも聖徳太子も山背大兄王も架空の存在かもしれない。山背大兄の墓はなく、平安時代まで法隆寺も本気で祀っていません。入鹿悪人説をとるための創作ではないか。中大兄は親蘇我の大海人皇子に、皇位を奪われることを怖れていました。私利私欲のために先手を打ったのでしょう。二人の仲の悪さは知られていました。鎌足はまた聖徳太子(入鹿?)に寵愛されたという秦河勝を唆しました。
蘇我本宗家は、早くから渡来した秦氏の技術を重用して力をつけてきたのに、後から渡来した東漢氏の先進知識に乗り換えようとしていたのです。事件の直後、現場にいた古人大兄皇子は、「韓人、鞍作臣を殺しつ」と叫びました。入鹿殺害の実行犯は、秦河勝だったのです。秦河勝を祀る播磨の大避神社では、秦河勝が入鹿の乱から逃れてきたと伝えています。事実、河勝は逃げ込み、大和に帰ることなく恨みを残してこの地で没しました。本来なら手柄を立てたとして、政界に躍り出るところですが、蘇我系の孝徳天皇のもとには戻れなかったのです。秦氏の悲劇の始まりでした。
しかし秦氏に好機が訪れます。桓武天皇は、長岡京遷都に際して地元の秦氏を頼み、母が秦氏の藤原種継を起用しました。ところが種継は暗殺されてしまいます。新羅系の復活を恐れた藤原氏本家の仕業で、早良親王や大伴家持までが巻き添えになりました。秦氏は巨大な勢力を持ったまま政界を離れ、最下層の人々と共に生きてゆきます。傀儡や白拍子、猿楽などの差別される民となって権力者を呪い、蔭で鬼を祀って稲荷信仰を広めたのです。「了」

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